本社が面している銀座通りは、大正10年4月に函館の市街地で発生した大火の直後に計画されました。この計画は現在の末広町・豊川町から宝来町にかけて約500メートルの長さに渡る道路を設置し、その両側に当時最先端の耐火建築である鉄筋コンクリート造の建物を建設し、火災発生時に防火帯としての役割をさせようと考えられたものでした。
そして完成した銀座通りは、当時の北洋漁業の好景気も相俟ってか、まもなくカフェー街として発展、料亭、映画館、劇場が建ち並び栄華を誇ります。東京以北では、最大の繁華街として知られるようになりました。
「東京銀座通りのような繁華街に・・・・」という願いもあって銀座通りの名前が定着したようです。東京の銀座を模した名残として、現在でも枝垂柳(シダレヤナギ)の木が残っています。
東京以北最大の繁華街として発展した銀座通りでしたが、昭和9年3月に発生した大火ではその猛火には勝てず多くの建物が焼けてしまいました。しかしその後、焼け残った建物を修繕したり新築するなどして大火前と同様の街並みと賑わいを保ち続ける事になりました。しかし北洋漁業の衰退や、函館の中心機能が市東部に移行した事により、平成の現在では寂れた通りになってしまいました。
*この文章はHP関根要太郎研究室@はこだてより引用させてもらいました。
http://fkaidofudo.exblog.jp/17017435/